
「看護、それは人と人の繋がりを蝶番にし、医療を超え、
介護を包摂し、暮らしを支える実践過程そのものである」
東日本大震災から、二年がたちました。復旧復興には、長い道のりがあります。特に、原発問題は、ますますの困難に直面しております。原発問題は、人間から労働と土地の両方を奪います。私たち人間は、時に、開けてはいけない扉を開けてしまうことがあります。原発開発は、当初、多くの反対運動がありました。原子力の恐ろしさを一番知っているのは、被爆国である他でもない日本国に住むわれわれ日本人なはずだからです。しかし、安全な原子力発電の喧伝はまたたく間に日本全土を覆いました。原子力発電所の見学が数多く実施され、学者から主婦や小学生に至るまで、そのクリーンなイメージ作りに貢献してきました。原子力発電は、その怖さよりは、拡大する資本主義を支える根拠のない安全神話のイメージとして、私たちの生活を根幹から支えてしまいました。もっとも、資本主義自体、成長し続けなければ、衰退するか、あるいは停止してしまうシステムです。ですから、拡大していくしかありません。そのためにはグローバル化が必要になってきます。グローバル化は、国という単位をどこかで薄くしてしまいます。国という単位を守るための抑止力が働かなくてはなりません。社会と資本主義は、それを成り立たせている基本原理が違います。社会は、人と人のつながりでできています。そして、労働から人を抜き去るのが市場原理です。この二つの異なる原理の、危ういバランスの上に成り立っているのが現代社会であるのです。
看護と何の関係があるのかと訝しむ方もいらっしゃるかもしれません。しかし、看護はこの現代社会のバランスに安定を取り戻させる貴重な仕事であるからです。看護は、人と人が繋がらなくては実践できません。看護は、観念的な仕事ではありません。きわめて現実的で身体的な営みです。日常における人と人とのつながりの上に立った、相互浸透的な仕事です。手を取り合うことは、看護師という実体的存在が、患者さんという他者の実体的存在へと浸透していくことです。まなざしを交わし合うことは、まなざすという視線の運動が相互に浸透しあうことを意味しています。私たちは、単なる表層的な身体の層だけで、患者さんたちと交わっているわけではありません。たとえ、言葉がわからなくなる認知症の人々とでも会話することは可能です。それは私たち看護職の仕事が、身体の奥深いところで患者さんたちと出会い、浸透しあうことで成立するからです。市場原理が闊歩する病院の内にあっても、戦場のような職場から離脱する人々に対しても、また、日常の裏側にある震災などによる非日常的事態においても、看護は、人と人のつながりをもとにして人々の心身の安息を図ろうとするからです。看護は、キュア時のケアを包摂するケアそのものです。したがって、看護は、介護を包み込み、生物医学的治療を主体とする医療を超え、生活あるいは暮らしを、人間とのつながりを蝶番にしながら実践されていく過程そのものなのです。
私たちは、この看護という仕事を目指し、深めていく中から、この現代社会を乗り越えていく方法を、弁証法的に見出すことができるかもしれないのです。そのためにはおおいに学習しなくてはいけません。最近読んだ哲学者鷲田清一氏の本の中に、メルロ・ポンティが引用されています。「メルロ・ポンティ曰く『われわれは、対象の奥行や、ビロードのような感触や、やわらかさや、固さなどを、見る(いわゆる視覚でまなざす)のであり、それどころか、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見る』とまで言い切ったのである。これは、視覚から触覚、嗅覚まで、異なる感覚とされるものがその実、単独の感覚である以前にまずは互いに交叉しあい、また深く侵蝕しあう、シネステジーいわゆる共感覚の現象を言い換えたものである。」と鷲田氏は述べております。看護は、人間の身体を通底しているこういった未分化な感覚までも探り当てることを必要とします。
アルプスが2つ映えるまち駒ヶ根は、人間という存在、あるいは人間の暮らしを考えるには最適な環境です。このすばらしい自然環境と人間環境の中で、看護を学び、さらに発展させていく仲間として私たちは皆さまのご入学を心よりお待ちしております。